昭和45年8月7日 朝の御理解
御理解 第59節
「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
只今の通りですね、んー、ほんとに、えー、色々教えて貰うた。あの人のおかげで、これだけ得をしたとか、これだけ出世をしたと、言えば、あれを教えたものも嬉しい。というわけなんですねえ。そこで、えー、ここで、信心の稽古をさせてもらい、ここで、習うておるということ。その、習うた結果が、どのようなことにならなければならないかと、言うと、おー、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜ぶという、こういう、おかげになってこなければならないということです。ここんところが、この中じゃ一番大事だと思いますね。えー、本来、大体、信心と言うものは、頼むことから始まると、ね。いわば、悲しいときの神頼みと申しますか、やはり、何も分からんのが、知らぬのが当たり前ですから、信心の道を知らない、それでもやはり、こう、何かすがらなければおられない、頼まなければおられないというような所から、あー、頼むという、ね。いわゆる、えー、そこからこの、信心は大体始まるものだと。
私、今日、御神前に出て、一番初めに出たことがね。源頼光という、ね。こら、歴史上で有名な方の名前なんですよね。あの、酒呑童子を、おー、おー、退治した話で有名なんですね。源頼光、源よりみつですかね。だから、どういうことであろうかと、私、思わせて頂いたですけれども、で、御理解を頂きますと、この、えー、いわゆる、59節を頂きますからね。ね。ですから、習うた事を忘れてと、こう、えー、先ず、習うということです。ね。えー、ま、私、頼むという事を、本来、いー、頼むことから始まるのだと、信心 とは。という事を申しておりますがね。何時も、お礼とか、お詫びとかいう事を申しますが、今日は、その、申しておりますのも、源頼光という事を頂いて言ってるんです、ね。源ということは、何といっても、その、源という、いわゆる、元です。頼という字は頼むという字に、同時に、こうという字は光という字が書いてありますから、はー、59節の、こういうようなところに焦点を置いて、この、今日は、59節を頂くんだなと、まあ、直感させて頂いたんです。ね。
みんな願いのない者はありませんし、頼みの、頼まんで良いというものはありません。ね。頼むというところは、この、教典のなかにも沢山出てまいりますですね。第一、天地書付を頂きましても、「生神金光大神天地金の神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日で頼めい。」とこう仰る。今月今日で頼めいと。ね。そこでその、私共は、一番初めは、この、頼むことから始まる。そして、その、頼むことに対して、えー、頼み方を教えてくださってあるのが、教えだと思うですね。ただ、無我夢中で頼むというだけではなくて、頼む、頼み方がある。ね。それには、いわゆる、今月今日で、一心に頼んでいかなければならないが、どうぞ、私の心に、和賀心を頂かせて下さいという事を頼まな、というように、私は思うのです。ね。おかげはその和賀心にあるのだと。和らぐ心に、喜ぶ心にあるのだと。だから、氏子一心に頼めよと。今月今日、只今を願っていけ、頼んでいけよと。ね。いつも自分の心の中に、平生心、いわゆる、和らぎの心。喜びの心を頂かせてくださり、そこで、和らぐ心を頂くことのためには、あとは、喜びが湧いてくる程しの信心とは、なら、どういう事かと、また、次を尋ねますと、神様は、次々と、和らぐ心のためには、このような信心になれよ。喜びを頂くためには、このようなあり方になれよと、もう次々、懇切丁寧に教えておられるのです、事になるのです。ね。ですから、どうでも、やはり、私は、御道の信心は、話を聞くこと、ね。祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かると仰るが、やはり、話を聞いて助かるということは、そのような事が分かってくるから、話を聞いて、そういう心が開けてくるというところに、御道の信心はある。だから、御道の、金光様の御信心とは、どういう信心ですかと。とにかく、話を聞かなきゃいけません。そら、初めの間は分かりません。分かりませんけれども、聞きよれば聞きよる程、分かってくる。味が出てくる。味が出てくるだけではない。味が出てくるころには、必ず、それに、陰の形のようにおかげが伴うてくる。ま、これが、金光様のご信心の進め方であり、金光様の信心とは、そういう信心だと言えると思うのです。ね。そら、頼むことと言うても、その、頼むことの内容が次第次第に変わってくる。話を聞けば聞くほど、頼むことの内容が変わってくる。ね。初めの間は、どうぞ病気を治して下さい。どうぞ、人間関係で苦しんでおります、どうぞ円満に行きますようにと。金銭の上で難儀を致しております、金銭のお繰り合わせをお願い致しますと言うて、まあ、頼む。ということですね。だから、その頼むことは、やはり、いー、何時も同じであろうと思いますけれども、その、頼む内容が変わってくる。ね。だから、その内容が変わってこなければ、信心を稽古しているということではない。ね。そして、結論として、どういう事になるかというと、信心のある者とないものは、親の無い子と、ある子ほどの違いという事を実感するようになる。ね。そこから、心からの、いわば、お礼の信心ができる。
えー、昨夜、吉井の熊谷さんがお参りになられまして、えー、もう、実を言うと、その、昨日、かえられ、お参りから帰られたら、娘さんが、親戚の誰々が、もう、八十も上になられる、あー、お年寄りの方がある。まあ、ものも、随分金持ちなんです。で、そことの、色々な、あー、家と家との葛藤と申しますかね。それが、とうとう裁判沙汰になり、えー、とにかく、十何年間ですかねえ。裁判になって争い続けられる。もう、言うならば、そのお婆さんから、もう、本当にもう、いやというほど苛め抜かれたと、こう言うております。ね。そこで、例えば、その苛め抜かれた、その苦しさがというのではなくて、どうでも、その裁判に勝たなければならぬ、というので、その、信心を始めたち言うのです。異常なんです。で、ある教会に一生懸命お参りさせて頂いたけれども、はかばかしくない。そして、ここにご神縁を頂かれて、えー、直ぐ結果が出たと。答えが出た。というのは、その、裁判に負けられたということなんです。ね。そこのところから、熊谷さんの本当の信心の目が開けてきたと。本当に、苛め抜かれた、争い続けてきた。ただ、頼むという、ね。裁判に勝ちたいばっかりに、一心にお参りもした、あー、信心をさせて頂いたのですけれども、はかばかしくない。そこで、合楽にご神縁を頂いた。当時の椛目におかげを頂いた。ところが、有難い事にはね。その、もう、間もなく負けられることになったのですけれども、信心の、どういうようなものかというような、本当のところが少し分かりかけられたということですよね。で、昨日も、その事のお礼を、別に、いー、昔のようにその、争っておられたとじゃないけれども、娘が言うのに、時たまには、あの、お婆さんをお見舞いに行きなさらないかんですよち、娘が言いますから、ほんにそうの、この頃は随分御無礼しとるから、ほんなら、お見舞いに行こうかと言うて参ったとこういう。まあ、それはもう、とにかく、うー、もう、若い時から贅沢の、もう、これぐらいに贅沢は出来まいというぐらいに贅沢をした方らしい。お金は、勿論沢山持っておる。ところが、もう、話されることを聞いておりますと、もう、問題が多いのに驚く。その問題が、実に深刻。腹の立つ問題、悲しい問題。ね。と、その、もうとにかく、帰ろうと思うけれども、帰られん程しの、に、その次から次とお話をされる。そして、そのー、最後に、あそこの連れ合いの方が亡くなられる時に、まあ、遺言のように言われたということが、その、熊谷の貞しゃんだけは間違いのなか人間じゃけん。あれ、何でん頼めち言うてあったち言わしゃったつばい。貞しゃんというのが、熊谷さんの事ですねえ。熊谷貞世さんち言う。それで、まあ、一つ行かれたことを大変喜ばれて、ま、色々とその、頼まれる訳なんですよね。訴えるように頼まれる。それを聞かせて頂いてですたいね。本当に、信心の有る者と無いものの違いというか、もう、ほんとに、はっきり、親のある子と、ない子ほどの違いを感じましたという訳なのです。ね。裁判に負けた事が、開眼になった。真の信心の開眼になった。その真の信心を、おー、進められて二十年間。毎日毎日、それこそ、何か難儀なことがあるとじゃろと、おー、言うくらいに、毎日お参りをされるんです。現在では、もう、朝晩参られる。それは、信心の、いわゆる、喜びが身について楽しみというような事でしょう。ね。勿論、頼まれる内容というものは、もう、全然、その、二十年前と、今日で言うと、大変な違いになってきておる。まあ、言うならば、人の難儀が助かることのための、一生懸命の、そのために修行され、そのために、お参りをされる。あの人の周囲に、沢山の人が潤うていくおかげを受けていくという事になってきた。ね。同じ頼むことでも、やはり、その様に頼み方が変わってくる。一番の初めは、裁判に勝ちたいばっかりという頼みから始まった。ね。そこには、頼むことから、その、答えが出てくる。ね。一心に頼めと仰るけれども、頼むことは、先ず、和賀心を頼めというようなことがです。具体的に様々な教えから、頂けてくる様になる。ね。そして、そこに分からせられることは、信心のあるものとないものは、親の無い子とある子ほどの違い。本当に、昨夜も二人で話しました。ほんとに、熊谷さん、もう、世の中の難儀な氏子というが、その、自分で、難儀を難儀と感じていない。ほんとに、信心がないものは、もう、みんなが難儀と言うて良い。ですから、本当に、もう、一人ひとりに、その、親のある子とない子ほどの違いのおかげを頂いてもらいたいために、説得して廻りたいような気がするですねと言うて話たことでした。ね。何十年経ってみて、例えば、金やら物やら、あー、には不自由の無い、その、おばあさんのお見舞いに行かれてからです。信心が無いなら、どんな人でも、必ず、晩年には、淋しゅうなる。段々、淋しゅうなってくる。ね。ほんなら、金光様の信心しとら、誰でも心が賑やこうなるかというと、そうじゃないです。今言うように、頼む内容というのが、変わってくるから、有難いのです。だから、賑やかになってくる、心が。有難うなってくるとです。安心が生まれてくるとです。ね。それがどういう事かと言うと、神も喜び、ね。金光大神も喜び、氏子も喜ぶと、そういう、おかげが、ずーっと開けてこれるようになるからなんです。ね。ただ、頼んだ、おかげを頂いた、だけだったら、悲しいときの神頼みで終わってしまうでしょう。そして、その、頂いたおかげは、ね。只今申しますような、神も喜び、氏子も、おー、金光大神もという、喜びになって来ない。金光様のご信心のおかげは、頼む内容と同時にです、ね。その、おかげの現れ方というものが、神も喜び、氏子も喜び、ね。金光大神もの喜びというように、そういう喜びが、いただけてくる、それを私は、今日は、光とこう、ね。源頼光、光。それが、家の光になり、世の光になるのだということなのです。その、光をです。金光大神は、取り次いで下さると言うても良いのです、だから。ね。本来、信心というのは、やはり、頼むことから始まると。一つ、源頼光という、これを一つ覚えて、皆さんで、これをしっかり心の中に頂いて下さい。ね。もともと、信心とは、頼むことから。確かにそうです。けれども、その、頼むことがですね。ね。一番初めに、頼んだことと同じようなことが、十年も二十年も続いておるとすると、それは、可笑しいという事になるのが、金光様のご信心です。ね。頼む内容というものが、自ずと変わってくる。ね。そこにね、喜びが頂けてくる。ね。和らぎ喜ぶ心が、段々、育ってくる。ね。そこから、生まれてくる。そこから、よりまだ直、頼んでいく。もう、そこの頼みはね、そげな、信心のない人から見たら、それこそ、今、あの熊谷さんの場合を言うても、ね。全国の交通安全を願われるです。(はっは)そるきん、なぜ大きなこつ言う、それも、必ずお初穂包んで、ちゃんと頼まれるです。最近では、もう、遠い親戚の方の就職のことを、もう、一生懸命願われよるです。やっぱ、それも、ちゃんとお初穂してあるです。そすと、一つは、私共の、三番目の息子が、こう、顔がはれとっとがおりましょう。大坪幹三郎と申します。幹三郎さんのことを、一生懸命、やっぱこれも、お初穂奉って、一生懸命願われよるとです。ね。ですから、ほんと、そげん、人のこつまで、ただなさらんでんち言うごたる。それだけ、私は、信心にゆとりが出来てきた。ということは、それだけ信心が、成長してきたということだ。人の助かることを、自分の助かりとしておられる。人の喜ぶことを、自分の喜びと思う、感じられるようになってきておられるということ。二十年間の間に、そりゃ、まあ、随分の、信心の過程はありましたよ、ね。息子さんの大学受験のことやら、あー、嫁ご貰わんなん事やら、家庭の上にも、様々な願いをし続けてこられたけれども、最近の、その、頼みというのは、もう、そのような消化されたものですね。いわゆる、その、高度な頼みというもの。そのために、朝も参りゃ、晩も参るという事になっておるわけです。
先日から、お母さんのお誕生に、息子さんが、福岡におられますから、えー、一日、ゆっくり、温泉にでも行って、美味しいものでも頂いていただこうと言う。まあ、息子が、そう言うてくれますけれども、もう、私は、そら、いっちょん、実を言うたら嬉しゅうないと。私のことを、そんなに言うてくれるなら、合楽にお参りして、お礼を言うてくれるなら、それが一番嬉しい。けれども、折角、まあ、息子達夫婦が、そう言うてくれるから、ま、神様にお願いさしていただいて、お届け頂いて、どうぞおかげを頂く、本当の意味でのおかげを頂くようにと言うておりました。ところがね、その、温泉の行きたいというところが、全部満員で行かれなくなって来た。ね。だから、お母さん、もう、福岡のほうでは駄目ですから、そちらの方へ僕が帰ってきて、原鶴になっと行きましょうという事になった。まあ、本当おかげいただいて、原鶴なら、あの人どんが、こちらへ帰ってくる。こちらに帰ってくりゃ、必ず夫婦が、ここにお礼に出てくると、こういうわけなんです。ね。もう、私は、温泉に、例えば、あー、行って、手取り、足取りして貰うて、おご馳走頂くよりもです、あの人たちが、その事でこちらへ帰ってきて、合楽へお礼に出てくれる事の方が眼目であるよ、願いであると、こう言うておられます。あー、そうの、と言うて、もう、福岡に行く気には、ほんなら、と言うてその、以前はそういう、やっぱタイプの方でしたから、ある意味で強引だったんですね。そげなことよか私は、金光様のほうが有難いち、こう言うとこでしょうけどもね。そうな、と言うて、それを一応受けられて、嫁ごやら、言うなら息子達の顔も一応立てて、えー、それをやっぱ、願うて行かれるというところに、その信心が、ゆとりが出来られたと思いますですねえ。本当に、こう私が、二十年間、言うなら、教導させて頂いてきて、段々、信心の、いわば、頼まれる内容が変わってくるということがね。もう、そして、なら、昨夜のようにです。ね。本当に、何十年経ってみて、はっきり、いうならば、あ、そのう、二十年前は、あー、十何年間も、いわゆる、裁判の上、言うなら、喧嘩し続けてきた、その相手のおかげでね。私の真の信心の目が開いたと言うて、その事をお礼を言うておられます。ね。その方を、例えば、見舞いに行ってです、色々、その人の、いわば、相談相手にもなってあげられる程しにおかげを受けておられる。そして、そこに、信心の有る者と無いものの違いを、はっきり見ておられる。親のある子と無い子ほどの違いを感じておられる。ね。それも、そもそもは、この人のおかげで、こういうおかげが頂けれるようになったと。そんなら、おかげというのは、どういうおかげかというと、頼みの内容が変わってくる程しのおかげであるということ。いわゆる、源頼光、頼光の光のところが、もう出てきたという感じです。ね。そういう、例えば、お礼お届けがです。とても、天地の親神様は喜びなさらんはずは無い。金光大神が喜びなさらんはずは無い。それを取り次がせて頂く私が喜ばんはずが無い。ほんとに、熊谷さんおかげ頂いて、もう、ほんとに、手を取り合わんばかりに、何時も喜び合う訳ですね、私と熊谷さん。もう、ほんなこっちゃんのうち言うてから、言うわけですよ。ね。だから、そういうですね、おかげに、私共が、それ、信心も手習いも同じこと、一段一段と、こうしてから、一段一段、年限だけ進んで、とにかく、ただ、自分のことだけ頼む。そういうところにも、やはり、おかげ受けますけどもね。それでは、いわゆる、神も喜び、氏子も、あ、勿論私共も、それに取り次いでくださる先生も、金光大神も喜んで下さるという事にならんでしょう。教えて頂くことは、もうみんな、一段一段進めていく事を教えて頂いているんですから。ね。おかげもそれに進展、信心の進展と同時におかげのほうも進展していくというおかげ。
昨夜も、皆さん、んー、その事を聞いて頂いたんですけれども、昨日の晩ですね、五日の晩は、壮年会でした。いわゆるもう、丁度、おー、何時も十二時ぐらいで終わるんですけれども、もう、一時間ばっかり、もう、一時ありました。それで皆さん帰られます。それぞれ車を持っておる方たちが、あー、車の無い方たちを乗せて帰られます。なかにあの、久留米の石井さんが、善導寺の久保山さんを乗せて帰られておる。勿論、おー、帰り道ですからね。いわゆる、便乗されたわけです。それで、善導寺の町に入る、その、十字路のところで、えー、もう、ここで良いですから、どうぞ降ろして下さいと言うて、えー、言われたところが、いいえ、ち言うてからその、曲がってその、町のほうへ入って久保山さんの自宅の前まで送って。その、曲がってからね、清さんが、久保山さんに言うておることがね、素晴らしいじゃないですか。ね。これからが、久保山さん良かとこち言うた。これからが。ね。例えば、ほんなら、ここから善導寺までなら、あちらへ行きよる車なら、それこそ、誰だって、乗りなさらんかと言いますよ、信心のなかもんでも。そうでしょうが。乗せてくれて、はあ、どうぞと言うて、誰でも乗せますよ。だから、そこまでならね、そこまでなら、もう、普通と同じことということです。ね。ちゃんと極めどこという、つかみどころを、きしっと握っておるとこです。久保山さん、これからが良かとこ。これからが、これからはね、私のためぞち言うた。もう、貴方の為じゃなかち。ね。あの人は、もう、非常に、極端な結論を出す人ですけれども、とにかく、腹立てたら馬鹿らしかと、こういう結論を出す人ですよね。昨日か、一昨日かいただいとる御理解を思うたら、その事が、どのように素晴らしいことかということが分かるでしょう。心を乱さない。乱したら馬鹿らしかち。そこで、乱さんで済む信心と勉強を一生懸命、何時もしておる。ね。それはね、ほんなら、誰でも、それは、ほんなら、信心のあるものの車に便乗されたら、なら、久留米のほうへ行く人でもです。おそらく、そんなら、ああそうですかと、ここで降ろす人は無いでしょう。やっぱり送っていくでしょう。送っていくけれどもね、ただ送っていっとるだけ。ただ、親切で送っておるというだけです。ね。または、心にゃ、ほんと面倒くさいと思いよるかも知れません。折角、乗せた以上、まあ、送って上げましょうで、送ってあげよるかも知れません。けれどもね、清さんは、それから先は、もう、自分のものなんだ。知ってるわけです。もう、おかげを頂くこつを、ぴしゃっと掴んでる。ね。私はね、皆さん、あの、清さんの真似のできんとこ、皆が真似の出来んとこは、そこだと思うですね。ここまでは、誰でも出来る、信心しよら。けれどもね、これからが出きんという、ほんの一押しというところをですね。それを、ひと押しと言うて、こう、食い縛って一押しじゃなくて、もう、それからは、自分のものとしておるところが素晴らしいです。もう、この人の行き方は、一事が万事その行き方ですよ。ね。みんなが言います。あの、清さんがおかげを頂く秘密はどこにあるかと。何時も、ま、あそこ、研修会、研修されるところですけどね。だから、あの人がおかげ頂く秘密はそこ、そういうところにあるです。ね。私共の信心がですね。段々、成長してまいりましてね。ここまでは、誰でも出来るというところから、もう一歩前進するところの、信心というものを、何時も、心掛けとかなければ、まあ、そういう意味で天才的ですね、この人は、信心の。ね。あんたもう、違わんごと、ま一時しよったら、○○教(笑って)ば、設立するかも知れんばいち言うてから、私が言います。いいえ、そりゃもう、親先生の信心と言うものが、根本にあってから、ね。親先生の信心の、いわば、私の秘訣と言うものを、もう、ぱっとこう、把握しているわけですが、私のおかげを頂いておる秘密といったようなものを。ね。私共は、なかなかそれが、もう、稽古した上に稽古しても出来んのですけれどもです。信心がね、少しはましな、少しは違った、私は、生き方というのが身に付いてこなければね。私は、神も喜び、金光大神も喜びという事にはなってこない。勿論、私自身も喜べるおかげになって来ないと。それを、ただ、私がおかげを頂いて、私が悦に言っておるというだけのね。おかげで終始しておるようなことではです。熊谷さんが、昨日、夕べ言われるように、親のある子とない子程の違いを、ここに、はっきり見たというような、おかげにはなって来ないですよ。私は、いうならば、そこんところを何時も力説しているわけですから。そこんところを、例えば、まあ、私が師匠で、皆さんが弟子とするならです、ね。師匠のおかげで、ここだけは体得した。そして、それをはっきり現すことが出来た。と言うて、おかげを頂いて下さるなら、ね。私の喜びは勿論のこと、神様が喜んで下さる、金光大神が喜んで下さる、おかげを受けれれる、皆さんも喜ばれると。ね。あそこにまで、お願いに行ってから、こげな奇跡的なおかげを頂いたと。おかげを頂いただけではね。それは、神は喜ばん、金光大神は喜ばん。という事になります。勿論、その本人は喜んでおっても、それは、つかの間の喜びでしょうが。ね。それが、段々、内容が、いわゆる、頼む内容というものがね。変わってくる程しの信心。一段一段と変わってくる。ね。信心、本来、もう、頼むことから始まるのだと、今日、私は皆さんに申しましたですね。源頼むということ、源よりみつね。それが、より、その、源頼光ですね。光(こう)にならなければ、光にならなければ、ね。
私は、本当に思うですね。信心させて頂いたら、本当に、あの、根性が磨かれてね。そら、根性が要ります。けども、その、磨きに磨かれた根性になっていかなきゃいかんと思うです。私は昨日、私は、私がお礼言いたいような、お取次ぎをさせて頂いた。ある人がね。んー、自転車を買いたいと言うてお願いに見えた。それからあの、お願いさせて頂いとりましたら、昨日、おかげで買わせて頂くことにしましたというのである。それが、どっから買うたのち言うたら、直ぐ近所に自転車屋さんがありますという。まあ、この人、この人は私も知ってますが、もう、ちょっともう、ま、普通で言うなら、ひょくな人じゃろかと。もう、風雅人のもう、もうちょっと本当、もう、誰も近所のもんは、そっから、自転車なんか買わんです。ね。けども、隣近所のことですけんね、やっぱり、そこから買うたち言うんですよ。そら、あんた、ほんと、素晴らしかのち、私は申しました。(はっは)そしたら、今度は、向こうが喜ばれちからですね。ちょいと、近所から買うて貰うなんて思うちゃござらんですから、喜ばれちから、もう、それこそ、もう、びっくりするごと勉強しなさったち言うわけ。もう、近所じゃけん、あんたげから買うきん、負けとかんの。そういうもんじゃ全然ない。もう、そのひとこ、いわゆる、磨きに磨かれた魂が、ね。もう、それこそ、同じ椛目の側にござる自転車屋さんから買う。誰でん、普通は、そこから、絶対買わんです。ね。大体そういう人なんです。もう、私は、いつもその人のことで頭が下がる。ね。だから、向こうも大体その、近所のもんからでん、買うてもらわんでん良かちいうごたる気持ちを持っておられるかも知れん。ね。けども、そこん所へですね。ほんとに、信心の有るものの、その、あり方というものがね、はっきり出てくるでしょうが。ね。もう、本当にその、私はね、金光様のご信心頂いたらね、根性がようならな駄目だと。ね。根性は要るて、要るけれども、その根性が磨きに磨かれていかなきゃ駄目だと。ね。その人自身も大体は、あー、その、場合には、その人が非常に悪口を言いよったことやらもあるお届けがあったこともあるんですよ。ね。けども、そんなこつなんかは、全然、意に解してないもん。信心に消化されてしもうとるです。ね。信心をさせて頂くんなら、本当に、魂が清まっていくことなんですけども、清まって行く、その、清まっていく、その、清まった心で、頼んで行く、願うて行くということの内容が、ね。段々、それこそ、神様が頼みなさるような、頼みが出来てくるようになる。それが、和賀心が、神に向こうて行くということだと私は思う。ね。いわゆる、それが光になる。ならんはずがない。どうぞ一つ、うー、普通ですね。大体、源頼光が、源頼というところまでぐらいしか行かんのです、みんなが。もう、信心ちゃ、頼むものだ。頼まにゃ、馬鹿らしいごと言うて頼む。ね。だから、頼む、頼まれたら、頼んだら、頼まれて帰らにゃいかん。それは、お取次ぎを願い、お取次ぎを頂くということ。ね。神の頼みなんです。皆さんにこうやってお話を頂いておるのは。こうあってくれよという頼みなんです。皆さんは、こうして下さいと頼むでしょうが。だから、頼み頼まれ。親の事は子が願い、子のことは親が頼みとこう仰る。親と子が頼み願い会うていくというのが、金光様のご信心なんです、本来はね。そもそも、頼むことから始まってです。頼む内容がそのように変わってくる。頼み頼まれるというところ。そこからしか、光は生まれてこないということ。ね。どうぞ一つ皆さん、源頼光ね。的おかげを頂いて、神様にも喜んで頂き、金光大神にも喜んで頂き、そして、勿論、自分も喜んでおれれるというようなおかげをね。頂かせてもらい。そういう信心の世界が、自分の周囲に広がっていくことを願い、頼みとしなければならんと思うですね。どうぞ。